こんにちは、ふらです
カウンセラーさんがブログ読んでくれてる
嬉し恥ずかし申し訳ない
お仕事増やしてごめんなさいの気持ち
一応、読まなくてもいいとは伝えているので許して
いつもありがとうございます
そんなこんなで今日はカウンセリング
仕事どうしていこうかなとかお金のこととか
お悩みを相談してきた
カウンセリング始めた当初は、
“鬱を完全に治したい”って気持ちが強かったけど
今は、“鬱の波とどう付き合っていくか”って
考え方に変わっている気がしてる
わかんない、最近は調子がいいからそう思うのかも
鬱ひどい時はとにかくこの苦しみから抜け出したい
みたいな気持ちが強いからな
苦しすぎて2度と味わいたくないから寛解を望む
元気な時は、鬱が来ても耐えられそうな気がする
学習能力がないのか?
鬱の苦しさの程度をすぐ甘く見積もる
死にたくなるほど追い詰められてたくせにね
覚えててもツライから忘れちゃうのかな
わかんないけど
…
“休みたい時に休みたい”という話をしてきた
高校の頃、時々学校を休むことがあった
身体がダルいけど、熱とか吐き気とか
分かりやすい不調はなくて
行こうと思えば行ける体調だけど、休みたい
それを母に伝えて、休むことを許されたい
そうやって1日休むと次の日からは元気に行ける
そんなことを時々やっていた
熱もないのに休むのはダメなことで
でもそのダメを通すワガママを認めてもらうことで
なんだか安心していた、気がする
体調と精神のバランスをとってた、気がする
でも社会人になると
当欠はあまり良しとされてないし
有給も限られているし
ワガママで休むのは許されないと思ってた
計画的有給では満たされないものが、当欠にはある
わたしは当欠がしたい
わたしは当欠がしたいのか?
自分の欲求がよくわからない
学生の頃、1日の休みで回復していたものが
社会人になって1日の休みでは回復しなくなった
何が減っていて何が回復しているのかもわからない
…
上記と関係あるかわからないけど、幼少期の話
引っ込み思案で大人しい子供だった
大人しいと言われるのが嫌いだった(今でも嫌)
地味で、暗い子と言われているような気がした
周りの大人が、うまく喋れない子供の扱いに困っているのが分かっていた
緊張してうまく喋れなくて、遂には泣いてしまい余計に困らせていた
それが、たぶん、いやで
周りの人間が困らないように振る舞うのが“正解”だと思ったのかな
泣きながら帰っても、玄関くぐったら笑顔で過ごしたりして
楽しそうにしていないといけない気がしてた
大人しいって言われたくなくてよく喋るようになったし
リアクションも大きいと思う
そうやって振る舞うのがいいって学習してきた
でも時々自分のしんどいツライ部分を認めてほしくなるのかな
“休みたい”を認められることで安心するのは
なんかそういうことじゃないかと思えてくる
ちょっとまだ言葉が足りないな
また次回のカウンセリングでもう少し話していきたい
おわり
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